1997年 今週の意見 −6月

今週の意見(21): ネットエチケットを守れ 先週東京地方裁判所はパソコン通信のフォーラムで、その名誉を毀損された との女性の訴えを認め、パソコン通信の運営会社であるNIFTYとそのフォ ーラムの管理責任社・シスオペ、それに名誉毀損に相当するメッセージを書き 続けたフォーラム参加の男性に対し、総額50万円の支払いを命じた。この判 決ニュースは新聞各社やテレビニュースでも大きくとりあげられた。特に朝日 新聞などでは27日朝刊のトップニュースとなったほどである。私自身は NIFTYではないが、同じようにパソコン通信のフォーラムの一つで長年議 長を勤めてきたこともあり、やはり大きな関心を持ったことはいうまでもない。 そのニュースはたまたま妻と一緒にテレビで見ていたが、妻は私がやはりそ のシスオペに相当することを別パソコン通信会社でやっていることを知ってい たから「あなたも注意した方がいいわよ」 と言った。私はそれに対して何も言わ なかったが、少し複雑な心境であった。そしてそれは多くのパソコン通信の運 営会社の経営者や、シスオペなども多分同じ気持ちであったに違いない。   複雑な心境だということを誤解しないで欲しい。そのことはその裁判判決が 間違っているとか、その女性の訴えが不当だとか言うつもりはさらさらないの である。そのフォーラムの中身を見ていないし、たとえ見たところでもうその 問題の部分は既に削除されているだろうから、今更それを読んでどちらがどう かなどというつもりはない。報道にあったその女性に対する個人の人格に関す る中傷誹謗、攻撃的な部分は事実であったろうし、それは間違いなく名誉毀損 と裁判長は判断したのだろう。パソコン通信上に載せられたものは公共性があ り、そうした場でそうした中傷誹謗を繰り返すことは許されないし、またそれ を止めなかったシスオペやNIFTYの管理責任も免れぬものではないことは 明らかであると思う。従って私自身その判決は全く正しいものであると思う。 私が心配するのはそのことではない。これでまた、それみたことか、パソコ ン通信なんて百害あって一利なし、みたいな論調が増えることである。朝日新 聞のような大新聞がこの記事を一面トップに載せた意図は一体何なのか。パソ コン通信のフォーラムなどができたおかげで、人々はこれまで体験したことも ない新しい形のコミュニケーションができるようになったのである。それは新 聞とかテレビには及びもつかない双方向性をもった新しいメデイアなのであ る。そしてそれに参加する人々はそれに目覚め、その可能性にわくわくしなが らフォーラムに参加しているわけである。                 パソコン通信、インターネット。そうした新しいコミュニケーションメデイ アの可能性は無限である。その実験はまだ始まったばかりだが、これからはそ うした新しいメデイアが新しい世の中を作っていく。しかしそれがどんなもの であろうと、人間と社会の基本的なルール、マナーや思いやりがなくてうまく 機能するはずがないのである。新しいメデイアに挑戦する人々はみなそのこと がわかっている。そして一部の不心得ものがそれを守らず、これを破壊し、全 体のイメージダウンにつなげる結果にしていることをを残念だと思っているの である。                                1997/6/7                                Tadashi HAYASE


今週の意見(22):



カタカナ退治



 「子供やお年寄りが分からないカタカナ語を使うな」と厚生省でお役所や公文

書に外来語が氾濫していると業を煮やした小泉厚生大臣が強い指示を出しわかり

にくい外来語の追放に乗り出した。ーー6月8日 朝日新聞         



 厚生省ではそのカタカナ使用を大きく3種類に分けるとある。極力使用を避け

る、工夫して使う(カタカナと日本語を併用する)、そのまま使う。極力使用を

避けるものとしては例えばプロジェクトトチーム、ガイドライン、マニュアルな

どの言葉。これはそれぞれ検討班、指針、手引などと表現する。       



 工夫して使うものには、インフォームド・コンセント、サーベイランス、レセ

プトなどがある。これはそれぞれ日本語で、説明と理解、情報の収集・分析と国

民への還元、診療報酬明細書などと説明を加える。そのまま使うものには、エイ

ズ、ゴールド・プラン、ホームヘルパーなどの言葉がある。         



 こうした説明を読んでいると結局なんのことかよくわからない。多くの専門用

語がカタカナになるのはある意味ではしかたないことである。そもそもそれが外

国からきた考えそのものであり日本になかった概念だから、これを無理矢理日本

語にすること自体が難しい、と言うか無理がある。インフォームド・コンセント

などはまさに最たるものであろう。だからさすがにその言葉をそのままカタカナ

表示せざるをえないのは当然である。そして説明と理解などと日本語訳を併記す

るのが一番いいことはその通りである。そしてそもそも翻訳が極めて難しい言葉

例えばエイズなど、そのまま使わざるをえないのは当たりまえである。これをど

う日本語で表現しようというのであろうか。それはそれでいいと認めておいて、

カタカナ外来語が氾濫しているのはけしからんという考え自体がおかしい。  



 元々日本にない文化事象や概念をカタカナで表現するのはしかたがないことで

ある。それはそれでいい。それを消化し、日本の学術、文化の中に消化していく

のならばそれでよい。日本の多くの文化は外国から伝来したものと本来あったも

のとの同化の過程である。というかどこの国の文化、言語もそうであろう。逆に

日本本来の文化や言葉が外国でそのままその国の言葉となっているケースもある。

例えばあまり良い例ではないが、ゲイシャとかしぶいなどがそうであろう。それ

でいい。                                



 問題はカタカナが氾濫することではない。官僚や学者がその言葉を使う場合そ

の中身を正しく説明しないで、それを乱発し、けむりにまくことである。日本で

は昔からそういう風潮がある。学者にしても官僚にしてもその内容の説明を分か

りやすく、理解しやすくすることが大切である。ゴールド・プラン、ホームヘル

パーなど自分達の役所で作った和製英語で、カタカナ語になったものはそのまま

でいいというもの妙な理屈である。ガイドラインを指針、マニュアルを手引書な

どと言い換える必要もさらさらない。インフォームド・コンセントはすばらしい

言葉である。それをそのまま使い、そして説明と理解という訳を併記することに

は何ら問題はない。                           



 別にカタカナ語を乱発するなとか、それは日本語そのものを使えなどという必要

はさらさらない。外来語に関しては多くの人たちに分かるように言葉を使い、場

合によってはいくつかの言葉を併記して説明を加えることこそが大切なのである。

カタカナの日本語としてそれが定着するならばそれでよい。         



Tadashi HAYASE                             

97/6/14                                 

 


今週の意見(23):



父の権威



 1ケ月ほど前、母の日のことを書いたので今度は父の日のことを書く。6月

の第2週の日曜日6月15日がそうであった。百貨店では贈り物の定番であ

るネクタイやポロシャツなどが沢山売れたに違いない。私の妻は実の父には

ゴルフの時に着るポロシャツを贈ったようで大変喜ばれた。娘から私のとこ

ろには私の好物であるコーヒを贈ってきた。まあ、ありがとうと礼は言った。



  母の日にしても父の日のことにしても私達が子供の頃はそんな習慣など全

くなかった。日本の社会にそういう習慣が定着してきたのはここ10年、15

年のことである。百貨店やスーパなどの重要な販売戦術として定着してきた

というのがその普及の主な理由にはちがいない。しかし、仮にそれが商業主

義の結果として定着したのだとしても、それは決して悪いことではない。母

の日に母に感謝して赤いカーネーションを贈る。父の日に娘がその若いセン

スでネクタイやポロシャツを贈ることなど習慣化することは大変いいことだ

と思う。                              



  先週末いつもテニスを一緒にやっているA氏がいやにしゃれたTシャツを

着てコートに現われた。いつも服装には無頓着なA氏がである。で、冗談半

分「父の日のプレゼントか」とたずねたら、うれしそうに、そうだと答えた。

で、どうもおめでとう、と祝福した。私の着ているのは去年娘がくれたもの

だとはこちらはつけくわえなかったけれど。              



  贈り物をするとかしないとかは別にして、1年に一度親子、父と子、母と

子の間でそういう交流があることはいいことである。贈り物をするしないは

いいとして、今日の家庭の中で父親とは何か、母親とは何か、家族で考えた

り、話しあったりするいい機会である。日本の社会で今盛んに言われるのは

父親の権威失墜ということである。父親が父親としての威厳と力を失い、か

って果たしたその役割すら果たしていないという批判である。これが子供が

不良化したり、家族との絆を失わせている理由だという。        



  そういう面があるかもしれないとは思うが、私自身の観察では特にそうと

も考えない。たしかに昔の父親はどちらかと言うと無口で、いらぬことはあ

まり言わなかった。怒る時には怒った。理由もなく、理由もよくわからない

まま叱られることもあった。だからそういう意味でも確かに恐かった。でも

今の父親はちょっと違う。もちろん叱るべき時にはちゃんと子供を叱ってい

るように見える。しかも昔の父親よりその理由をちゃんと説明してである。

だからその分恐くないとか、権威が失墜したなどという見方は少し違うと思

う。                                



  その点では私は親と子供、父親と子供の絆、関係において今も昔もなんら

基本的に変るものはないと信じている。                



1997/6/22                             

Tadashi HAYASE   

  

                      



今週の意見(24)



たかが野球、されど野球



 アメリカの大リーグから日本のセ・リーグの要請で日本にやってきて

審判を務めていたデイミュロ氏が試合判定をめぐって選手から不当な暴

力を受けたとして帰国してしまった。この問題はアメリカでは大きくマ

スコミにもとりあげられ報道された。その中身については読んでいない

からよくわからないが、日本のプロ野球の後進性についての報道であっ

たにはちがいない。                       



  日本では多少の話題にはなったものの一般の関心を引いたわけではな

い。一般の反応は、なんだ、たかが野球の判定をめぐるトラブルではな

いかとか、第一あの審判なんであそこまでそんな程度のことにショック

を受けるのかわからない、といったことであろう。         



 日本のプロ野球関係者の反応は概してそうである。暴力と言っても何

も殴られたとか蹴られたとかいうのでなく、せいぜい胸をつつかれた位

ではないか、なぜあそこまで神経質になるのかわからないということで

ある。アメリカのプロ野球では、審判の判定に抗議しただけで退場処分

になるのは当たり前のことでましてやあの事件のようにベンチから監督

をはじめ選手全員が出てきて審判をとりかこんで抗議などという風景は

絶対にないそうである。で、当の審判は大いにショックを受け、しかも

身の危険を感じたというもの頷ける話ではある。          



 たかが野球の判定のことで、なぜそんなに大騒ぎするのか。当事者のプ

ロ野球の関係者、監督からしてそれは単なる野球観の相違に過ぎないと

コメントしている。ここは日本なのだから日本には日本流のやり方があ

るのだというのが日本の野球現場担当者の一般的意見だ。これに関して

R・ホワイティング氏が1989年に日米野球の違いを書いた「和をも

って日本となす」という本が大変おもしろかった。その当時のニューヨ

ークタイムズはこの本に関して、「ベースボールは文化摩擦の縮図だ」

と評論している。                        



  このことは単に日米の野球の違いだけの問題ではなさそうだ。そう、

まさに日米の文化の違いを象徴する事件である。それは日米の国家社会

におけるの法とか、ルールとか、またその判定者の判断に従うのかどう

かという法についての根本的な価値観の違いを反映しているのかもしれ

ない。                             



 日本人から見てアメリカが日本より法治国家だという言い分はおかし

いと思うだろう。アメリカの方が犯罪は多いし、暴力沙汰だって多いで

はないか。野球だってかっては判定をめぐるトラブルで殴りころされた

審判がいたというではないか、と言うかもしれない。そう、そうなので

ある。だからこそ、アメリカでは法やルールを守らないことに対しては

日本以上に厳しい罰則があったり、判定については絶対厳守が課せられ

るのであろう。アメリカの野球の審判が絶対的な権威を確立してきたの

にはそのような背景がある。                   



  私は法とかルールを守るかどうかということに関してはアメリカの方

が正しいと思う。日本の社会や日本人の考え方は順法精神ということに

かける面があると思う。まあ、お互い多少の違反や、逸脱は何も実害が

ないのだからいいだろうという考えである。そうした甘い考え方が今日

の多くの日本企業の不祥事に結びついていると言ったら、短絡的すぎる

だろうか。                           



  日本には日本のやり方風土がある、などという言い方はこれからの国

際社会では通用しない。文化芸術のことではない。法とか正義とかに関

することなのである。それはこの程度守ったらいいとか、これくらいの

逸脱なら許されるというものではない。法や判定者ジャッジの判定には

絶対服従すべきものである。それが法の世界である。        



  日本の野球でも審判の権威は絶対であるべきだと私も思う。そうなっ

ていくべきだと思う。日米の審判の権威の違いということを通じて、日

本人も法と秩序ということを改めて学ぶべき時代になったのだと思う。

 

1997/6/28                           

Tadashi HAYASE                        



* 参照した本は 「和をもって日本となす」          

     R.ホワイティング著 玉木正之訳 角川書店 1989年 

      

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