1999年 今週の意見 7月

今週の意見(124):

公共部門に企業会計システムを導入せよ

 サミットが終わって日本の追加的景気対策が求められている。総理はこれこれの
追加対策を打ちますと約束する。公共投資、雇用対策、ついでに海外援助で発展途
上国へ貸した金はもう返さなくてもいいことにする。諸外国へ訪問するつど、気前
よく借款の約束をする。援助の約束をする。そして金融不安を除くという名目で銀
行への多額の公的資金を導入をする。おお、小渕はよくやっている、とクリントン
にほめられ、国内でも内閣支持率が上がる。

 が、ちょっと待ってくれ。気前がいいのはいいが、一体どこからそのようなカネが
出てくるのか、そんなことばかりやっていて本当に大丈夫なのか。不審に思わない
思わない方が不思議である。

 いうまでもなく日本国の財政は破綻状態なのである。不況で税収が大幅に減る一
方、上記のように歳出は経るどころか増える一方。その差額を何で補うか。いうま
でもなく赤字国債発行であり、税収をふやすためには増税となるはず。後者は言い
だしにくいから、とりあえず問題はどんどん先送りしておく。大規模の公共投資を
行います、雇用対策をします、公的資金の導入をします、外国への借款もします・
・・・・。それらはいずれにせよすべて国民の負担となってはねかえってくるもの
なのである。

 公的年金制度、医療保険、そして来年から始まる介護保険、そういう社会福祉諸
政策全体も破綻状況となってきている。日本ではそれらの財政状況を1200兆円
という個人の金融資産が支えている、支えてきた言われている。が、これとて一体
どこまで保証されているのかいないのかということになってくる。親元のふところ
状況が債務超過に陥っている中でである。

 こうした状況をふまえて、国家の財政状態を正確に把握するため、国家の会計に
も企業の財務諸表の仕組み、例えば貸借対照表などを導入すべきだという議論が高
まりつつある。国家の財政を単に歳入、歳出といった単年のフローだけでとらえる
のでなく、短期、長期の資産、それと短期、長期の負債、それに正味の財産額がど
うなっているかを毎年まとめて国家財産の正味のところを国民に報告すべきだとい
う考えである。日本国を日本株式会社ととらえるならば当然なされるべきことであ
る。今までそういう議論がなかったのか不思議なくらいだ。

 最近企業会計の世界では連結決算主義が主流になっている。日本国株式会社の決
算についても同じことが言える。問題になっているのは親会社のそれだけではない。
小会社たるそれぞれの地方政府の財政赤字もまた深刻なものがある。これを親会社
のそれと連結したら一体その負債総額はどうなるか。正味の財産額、それはまちが
いなく多額の債務超過ということになるに違いないのである。

 文芸春秋の5月号でその試算がなされていたのがその一例だが、それによれば平成
9年3月末の日本国株式会社の債務超過額はおよそ900兆円にのぼる。気の遠く
なるような数字だ。

 もしこれが一企業ならば日本国株式会社はとっくに倒産している。長銀だ、日債
銀だとその債務超過を問題にし、銀行各行の経営破綻を恐れて公的資金導入をはか
っている親元がそのような状況なのである。この現実をよく直視しない限り、日本
株式会社のリストラ策が真剣に論じられることがないだろう。

 国家政府、地方政府の財政報告について民間企業での貸借対照表をはじめとする
合理的な会計システム、会計報告制度を早急に導入すべきだ。国家財政の建て直し
議論はその実態を正確に把握した上で始まる、始めるべきである。

1999/7/3
Tadashi HAYASE
今週の意見(125)

監査法人告訴

 山一証券の破産に伴う管財人弁護士が、当時山一の会計監査を担当していた監査
法人に対し、その監査が適正なものでなかったとして、訴訟を起こすかもしれない
と報道された。また、最近では長銀や、日債銀の会計監査に関わった監査法人に対
しても金融監督庁が訴訟を起こすのではないかと伝えられている。

 私は訴訟は当然のことであると思う。もしそれがなかったらおかしい。山一の監
査を担当した中央監査法人は「監査はすべてその手順に従って行われたものでなん
ら問題はない」としている。長銀、日債銀の監査法人も同じ立場だ。通常必要な経
理上の監査は完全であり、海外小会社への負債飛ばし、のような不正行為など、内
部の監査システムだってチェックしようがなかったこと。それを外部の我々がわか
りようがない。それは責任の範囲外であると言いたいのであろう。

 しかしである、山一証券は破産当時、少なくとも財務内容としては債務超過でな
いと報じられていた。ところが破産処理が進むにつれて、債務超過額は実に160
億円にも達することが明らかになってきた。その数字はまだ未確定であるけれど、
それに近い、いやそれ以上の債務超過額になるだろうことは明らかなのである。

 破産当初、少なくとも債務超過ではないと判断された根拠は当時の貸借対照表を
始めとする財務諸表なのである。その内容については経理のプロ中のプロである監
査法人が徹底的にその中身を調べたはずだ。そして株主総会に対し、報告された貸
借対照表は適正なものであるとお墨付きを与えたのである。長銀、日債銀のケース
も全く同じ。要するに資産、負債の内容を正確にチェックすべきを、大きくその計
算を見誤ったのである。当然発見してしかるべき大きな問題点。それをやすやすと
見過ごした。その責任はそのやり口いかんに関わらず当然問われてしかるべきであ
る。

 監査法人の言い分はさまざまあろう。その不正処理のやり方が、海外国内の小会
社を使ったもので、それは監査の範囲を越えたものだ、というのが主ないいわけで
あろう。が、本当にそのからくりに気がついていなかったか。そうは思えない。貸
借対照表をはじめとしてその経理の仕組みは実に合理的にできていて、そのような
多額のカネのゆくえが簡単につじつまのあうように処理されてしまうことなどあり
えないのである。監査法人はその長い経験や、経理担当者との接触からそのからく
りについても十分察知していたことにちがいない。いや、少なくともおかしいと感
じていたことは間違いない。が、そこまで追求するのは我々の仕事にあらずという
判断であったにちがいないのだ。一般企業と同じく、日本の監査法人の体質もまた
長年の間そのような、なあなあ主義になってきたものと言っていい。

 いや、それが言い過ぎかどうか、うがち過ぎかどうか、是非訴訟が行われ、裁判
でその過程を明らかにして欲しいものでだ。監査制度の見直しは日本企業がこれか
らその経営の健全性を取り戻す上で重要なポイントの一つであるからだ。裁判にな
ったしても結論には何年も掛かるかもしれない。その結果はとりあえず横において
おく。が、今回の監査法人訴追の話で、企業側経理担当者、そして監査法人がより
本来の役割をきちんと果たすきっかけとなることだけは間違いのないことである。

1999/7/10
Tadashi HAYASE
今週の意見(126):

知価社会の条件

 経済審議会の答申で今後の日本社会、日本経済が再生する道筋がいろいろ示され
た。約10項目ほどポイントが示されていたが、いちいちごもっともと思われるこ
とばかり。ここではその詳しいことを論じるつもりはない。が、一つのキイワード
として、知恵を働かせる社会とか、知を楽しむ社会などという表現が目についた。
経済企画庁長官堺屋氏がみずから筆をとって書いたというものだそうだ。

 そう言えば堺屋氏の最近の著作で、「知価社会」というのがあった。要するにこ
れからはモノとかモノづくりの技術とかでなく、ソフトウエアやサービス中心の経
済、それとそれらのベースになっている知的生産を楽しむ、知的なものを創造する
ことを楽しむ社会、そういうものに価値を感じ、それに付加価値がつく経済社会に
なる、なるべきだということであろう。そうした考えには全く異論をさしはさむつ
もりはない。その通りだと思う。

 問題はそのような抽象論にいかに我々日本人がなるほどそうだと同感したり、そ
の中身を理解しているかである。多くはどうせこれから何十年も先のこと、とりあ
えずは目先の景気がよくなって、雇用不安などがなくなってくれればそれでいいと
考えているにちがいないのである。知恵を出せとか、知恵を働かせよというのはわ
かるが、知的なものを作りだすことを楽しむなんてことは一体どういうことなのか
よくわかっていないのではないかと思うのだ。

 もうこれで4回目になるが、先週四国フォーラムなるものに出席してきた。2日
間四国の活性化のためにどうしたらいいか、経済や観光や、道路交通、情報などの
インフラをどう開発し、整備したらいいかなど実に大きな問題を討議するのだが、
いつもどうも一番肝心の具体論が欠けているように思える。そして私に言わせると
その具体論の最たるものは、国際化、情報化する社会にあってそれに対応できる、
人づくり、そしてその教育論が一番大切な問題ではないかといつも問題提起するわ
けだ。もちろんそれは四国の問題でなく日本社会全体の問題でもあるわけだ。

 そしてその教育論とは、その知的生産を産みだしたり、それを楽しむような人間
を育てるというテーマだと思うわけだ。あくまで一般論だが日本人にいかにそれが
欠けているか、こうしたフォーラムに出ていてつくづく思う。どんなテーマに対し
てもそれを総括的、かつできる限り具体的に問題を発展させて考え、論じていく能
力がない。それぞれ自分の分野の経験を語るだけが精一杯。出席者は、官界、経営
教育、文化など各分野を代表する人ばかりなのである。だのにもう一つ議論の広が
り、まとまりがないのは一体どういうことだろうか、と思うのである。

 根本的に欠けていることが一つある。それは物事を自分で考え、自分の言葉で問
題をまとめる能力が非常に欠けているということ。フォーラムに先だっていつも基
調講演が行われるのだが、その講師の言ったことを自分の意見に引用するのはいい
のだが殆どその趣旨をそのまま取り入れているだけ。講師がこう言ったが私はこう
思う。ましてやここは違うなどという意見は殆ど出ない。間違っていてもいいから
私はこう思う、と言って欲しいわけだ。審議会の答申でも、世界に向かって情報発
信をすることの大切さをあげているが、このことと関連している。

 日本人に欠けているのはまさにその点。自分の言葉で自分の考えを主張する訓練
をすること。人の考えと同じ点、違う点を明確にし、自分の意見をまとめること。
自己主張の能力。これがまさに知的生産プロセスの大切なポイントなのだ。アメリ
カ経済が好調なのは情報通信分野のベンチャービジネスが数多く生まれたことがあ
るが、基本的には人まねでない、自分の考えに基づいたものを徹底的に大切にする
スタンスから新しいもの生まれていく、そういう個性がベースになっていることを
忘れてはなるまい。

 堺屋氏の知価社会建設という主張は正しいと思うが、その具体論として是非、そ
の教育論を付け加えるべきだと私は思っている。日本の教育でもその重要性が指摘
されながら相変わらずそれは欠如したままになっている。

1999/7/17
Tadashi HAYASE
今週の意見(127):

誰がベンチャー精神を奪っているのか

 1999年の年次経済白書が閣議で了承された。白書は企業が、「雇用・設備・
債務」の3つの過剰に対するリストラを本格化させる中で、今後財政・金融政策と
もその効果が衰える可能性を強調している。そのため新しく事業を起こすことや、
技術革新などにたいして失敗のリスクを恐れず、融資や投資を拡大できるような企
業風土を育成していくこと、そういう企業家精神を育てていく大切さを訴えている。

 それが「経済再生への挑戦」の一つの大きなポイントであることは言うまでもな
い。不良債権の処理や、過剰設備、過剰雇用の調整が後ろ向きのことであっても避
けて通れない、経済構造改革のための一方の道であれば、もう一つは新しいビジネ
スチャンスや技術革新に挑戦する企業家の精神を取り戻すことが必要なことはその
通りだ。

 しかしちょっと待ってくれ、と言いたい。そもそも今日の企業のそのベンチャー
精神や、技術革新への熱意を奪ってしまったのは一体誰なのか、と。金融界にあっ
ての護送船団方式といわれる、政府主導の業界操作。ゼネコン破綻の原因を作った
土木工事中心の公共投資による業界操作。そして最近では、それに懲りない産業再
生の名目のもとに、過剰設備に対する公的資金による救済策。セーフテイネットの
名はもっともらしいが、そもそも企業責任そのもの、リスクを承知で行うべきさま
ざまな施策について、安全網を作ってやろうという行政指導を行う。それが企業が
よってきたるベンチャー精神や、リスクに対する挑戦精神を奪ってきたのだ。そう
した政府の経済政策そのものが、今日の経済状況を作りだしているのではなかった
のか。

 企業に向かい、ベンチャー精神を取り戻せなどという一方で、あいも変わらず公
共投資や、金融安定化のための公的資金導入であれこれとご親切なセーフテイネッ
トを張りまくっているのは一体どなたかと聞きたいのである。

 リスクに挑戦せよ、などと言いながら、その従来の金融政策や公共投資の効に自
ら疑問を唱えながら、相変わらず大型政府支出の大型予算を組み、それでは足りな
いと言われると、まだ大型の補正予算を追加する。まず一番大切なことは政府が口
出しする部分を思い切って削るためには、思い切った規制緩和、そして市場開放が
なによりも必要ではないだろうか。そして何よりも小さい政府の実現を急ぐことだ。

 経済白書がこのことに全く触れていないのは問題である。企業のベンチャー精神
を奪ってきたのは一体誰か。それは政府であり、政府のさまざまないらざる施策で
あったということである。省庁再編などというごまかしの行政改革ではもうすまな
い。リーガン大統領の就任演説ではないが、今や「政府の存在そのものが問題」な
のだ。

 小さい政府の実現、そして市場経済化の徹底。これこそが白書のいうリスクに挑
戦する企業家精神育成の最大の前提条件ではないだろうか。

1999/7/24
Tadashi HAYASE
今週の意見(128):

ネットワークの威力

 東芝の製品を買った人が製品についてクレームをつける電話を掛けたところ、応
対の社員から暴言を受けた。それを繰り返すうち、その人はその電話応対を録音し
自分のホームページでそれを公開した。これが大反響を生み、アクセスがトータル
で100万件にも達したという。私もアクセスしてみたが、込み合っていてアクセ
スに至らなかったという状況であった。

 最初東芝はこれに反論して、その社員の応対は悪かったが、一般的でなく、通常
はきちんと対応している。その人のクレームが通常常識の要求を越えているような
ことを自社のホームページで書いていた。そして、全国からの攻撃にたまりかねた
のかその男性のホームページの削除を求めるかり処分を地方裁判所に申請したりし
た。

 こうした東芝の態度がけしからぬとこの男性を支持するホームページがいくつも
でき、東芝製品の不買運動を始めるという騒ぎにまで発展した。マスコミもこれを
大体的に報道し、大きな社会的な話題になった。当初真っ向から争う姿勢であった
東芝は先週ついに担当副社長が記者会見し、その男性に全面的な謝罪を表明し、男
性もこれを受け入れたという。事件は一応決着した。

 その時の東芝副社長の記者会見でのコメントが印象的であった。「あらためてネ
ットのおそろしさ、インターネットの威力を知った」というような内容であった。
インターネットにアクセスしたり、それを有効に使うことを可能にするパソコンを
製造、販売するメーカーの担当副社長のコメントとしてまことに皮肉なものである
と感じたものだ。

 危機管理という言葉があるが、それは自然災害に対する備えのことだけでなく、
ネット時代こういう分野にも企業の大きな危機が潜んでいるという報道もあった。
いや、その通りだが、私は本件に関するマスコミの報道ぶりがちょっと気になった。
事実をそのまま報道していたのは当然だが、それでも一消費者がインターネットの
ホームページを使って、このような大それた社会問題を起こすことに少々懸念を表
明しているようなところがあったからである。新聞各紙にとって東芝と言えば、い
うまでもなく広告の大スポンサー。事実は報道しても、もう一歩踏み込んでこのネ
ットワーク事件の本質や、一個人がマスコミにもできない大衆の声の結集ができた
という事実を一体どうとらえたか。マスコミにとっても少なくともこれは驚きであ
り、しかもあまり愉快ではないできごとであったにちがいない。

 仮にこれが裁判になったとして、その事実関係がどうであったか、その裁判結果
がどうなるかについてこの際コメントするつもりはない。どちらが正しいかどうか
はとりあえず横においておこう。私が指摘したいのは、こうしたインターネットの
威力である。使いようによってそれは既存のマスコミなども及ばない正義の剣とも
なるし、逆に使いようによっては悪魔の剣ともなりうる可能性を示したのである。

 ホームページで一個人がさまざまな主張を発表したり、情報発信ができしかもそ
れについてなんの事前チェックがないことを今更懸念する声も上がってくる。また
今後そうした規制論が改めてさまざま出てくることも予想される。しかしネットワ
ークを利用し、これをいつも正しく利用することを主張し、心がけている人々はそ
うした規制論だけは何がなんでも押さえ込むことが大切だと感じているに違いない。
私自身も一ネットワーカーとしてそのことを一番懸念しているものだ。

1999/7/31
Tadashi HAYASE

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