2010年 今週の意見 1月

今週の意見(662):

GNH:幸福の尺度とは

昨年末鳩山政権は長期経済成長戦略を発表した。これについてマスコミもさまざま
な観点からこれについて論評していた。多くは経済成長の関する戦略性が欠けてい
るとか、それにいたる道程が明らかでないとか、そもそもGDP3%くらいの成長
では不足だとかさまざまな批判があった。私はBLOGで、さまざまな批判はあっ
てもとりあえず、来年度予算が確定した段階で国家経済の長期成長ビジョンが示さ
れたこと自体に大きな意味はあると書いた。                                  

年が明け通常国会の中で、予算審議がお行なわれる中で、こうした長期経済成長戦
略があわせて議論され、その内容がより具体的になっていくということの意味は非
常にあると思うのだ。                                                      

これについては多くのマスコミとりわけテレビのニュースショーなどでこの話題が
取り上げられていた。多くのコメンテーターたちはろくな評論をしていなかった中
で、6日だったかテレビ朝日のスーパーモーニングでこの経済成長戦略問題を取り
上げていた。政府側からこの戦略策定に当たった古川副大臣が出演していた。まず
冒頭コメンテーターの鳥越俊太郎氏が、長期戦略ということの意味内容について本
来の意味内容について問題提起をしたことが注目された。氏は経済成長経済成長と
いうが、その尺度は一体なんなのか、そもそも経済成長先進国のイギリスやアメリ
カでもその成長モデルを示すことに失敗しているのではないか、日本もこれからの
国民の豊かさを計るという点ではGDPなどというものでないうまったく別の指標
をもってこなければならないのではないかと指摘した。                        

これに対し、古川氏は「鳥越俊太郎氏の指摘通りで、そもそも経済成長とかGDP
を伸ばすということは本来目的ではなく単なる一手段である。人間の幸福を増進す
る。幸福度をあげるということが成長戦略の本来の目的であるはずだ。経済戦略室
内でもそうした議論をしているところだ」というコメントをしていたが、まさに時
宜を得た適切なコメントだと感じた。                                        

そうなのである。そもそも豊かさとは何かとなった時それはカネでしか計らない、
計れないということがおかしいという指摘を誰もしないのだ。国民の豊かさ、人間
として幸福かどうかは所得が伸びた、ものを沢山買った、消費した、そんなことだ
けで計れるのかという極めて基本的な質問に戻らなければならない。金持ちが幸福
とは限らない。少々貧しくとも金持ちより幸福度の高い人はこの世の中いくらでも
いるはずである。                                                          

人間の豊かさの中にはもちろん物質的なものもあるが、精神的なものも大きいわけ
だ。経済学ではGDPなどという数字で物質的なものの豊かさを計るが、果たして
人間の幸福度はそれだけで計っていいものかという根本的な問題がある。        

実はこの議論今に始まったことでない。去年夏のことだと記憶するがが、人間の幸
福度をGDPでなくGNH(GrossNationalHapiness)とい
う指標で計ることを提案している報告書を読んだことがある。(住友信託銀行   
2009年8月調査月報)これには感心した。                                

この報告書によれば人間の幸福度を測る指標、幸福度を数値化をするためのの軸と
して掲9つの項目、すなわち、基本的な生活(living standard)、文化の多様性
(cultural diversity)、精神的幸福・精神衛生(emotional well being)、健康
(health)、教育・教養(education)、時間の使い方(time use)、環境(eco-
system)、地域共同体
の活力(community vitality)、良い統治(good governance)―をあげている。実
はこれはブータンという国が発表しているGNHなるコンセプトをベースにし、独
自に設定したものだそうだ。                                                

この9項目について数値化したものをレーダ曲線のグラフにし、その総面積が広け
れば広いほど、その人間、地域、国民の幸福度は高いということになるのだ。なか
なか興味深い考えである。もっともそれぞれの項目についてこれをどう数値化する
かは極めて難しい問題で、それぞれの判定には客観的事実よりも主観的な感覚がそ
のベースになるという側面があって、そうして集計されたGNHなる指標の大小が
果たしてどれだけ国民の幸福度を真に測る尺度たりうるかについては大いに疑問が
ある。                                                                    

だからGNHなどの尺度はまったくナンセンスだということではない。大切なこと
は、経済成長という場合、GDPが伸びたか減ったかということだけで、それが達
成できたできなかったというだけの議論をすることが間違いだということであろう。

いかなる世にあっても人間には一定の物質的豊かさが幸福、幸福度の一つのはかり
であることには違いない。その向上をめざすことが政治の一つの目標であり、人々
を幸福にする一つの条件であることは否定できない。ただ忘れてならないことはそ
れがすべての条件では決してないことだ。それがどれだけ具体的に人々の幸福につ
ながっているかを数字で示すことは難しいとしても、この例えばGNHなるコンセ
プト、あげたような9つの指標についてそれぞれのレベルを上げる努力をすること
成熟社会での成長戦略を語る場合の必要条件であることを述べておきたい。      

2010/1/9
早勢 直

今週の意見(663):

インターネットと中国社会の自由化

中国当局は米ネット関連企業が中国で活動することにに対し、民主化運動や、チベ
ットと新疆(しんきょう)ウイグル両自治区の独立運動などに関する「有害」ウェブ
サイトの閲覧規制への協力を中国での事業を展開する条件として突きつけてきた。
この中国の方針に従ってきたネット業界に対し、米議会はグーグルとヤフー、マイ
クロソフト、シスコシステムズの大手4社を名指しして非難していたのだった。特
にNo.1のグーグルに関しては、報道機関、ネット情報提供の最大手でありなが
ら、言論の自由とという米国にとっては金科玉条ともいえる原則を曲げてまで、中
国政府の横槍に妥協し、協力してまでそのビジネスを中国において展開することを
批判してきたのだった。                                                    

そのグーグルが、昨年12月中旬に中国の人権活動家のメール情報取得を目的とした
「非常に複雑な」サイバー攻撃を中国から受けたと発表した。さらに中国進出の、
金融、メディア、化学など最低20社の大手企業も攻撃も同じようなな攻撃を受けた
という。グーグルは誰が攻撃を仕掛けたかは明らかにしていない。そうした攻撃を
行う相手が何者であるか、そうした団体が中国政府に直接関わるものなのかどうか
またその意を受けたものであるかはわからないないが、そうした攻撃を受けること
自体が、グーグルほかのネット企業が中国で、情報提供内容について検閲をうける
ことを認めてきたことと無関係でないことは明らかだ。この結果を受けてグーグル
は、そうした検閲の停止を要求し、それが認められないなら、中国事業からの徹底
を示唆したのだ。その意味は重大である。                                    

そもそも米議会のグーグルへの批判は当然のことであったのだ。本来自由であるべ
き報道情報提供のネット活動について検閲を受けるなど自由社会ではありえないこ
とである。グーグルをはじめネット企業はそのことがもたらす意味にやった気づい
たということなのだろう。                                                  

仮にグーグルが撤退すれば他のネット企業も同じように撤退する。そうなった場合
中国はインターネットの世界では完全に孤立するわけだ。グーグルにせよ、どこに
せよネット企業は今度はあらゆるサイバー攻撃に備えながら、中国向けにこれまで
以上自由な情報提供活動を展開することは間違いない。それについてなにも遠慮す
ることはないのだ。中国当局は必死でそれに制限を加えなければならないが、果た
してそれがどれだけ可能か、ということになってくる。                        

中国政府当局は一体どういう体制でそれに臨むのだろうか。米側ではオバマ大統領
がすでにサイバー戦争の調整官を特別補佐官として任命しているようだ。サイバー
全面戦争の開始である。クリントン国務長官がこの間の事情を中国に対し求めてい
るが、このサイバー戦争が今後の国際外交舞台での一つの重要テーマになるだろう。

ある意味で野に放たれたネット企業は自由に、ありとあらゆる手段をもって情報を
世界に向かって流す。特に中国を意識することもない。中国側は今までは事前の検
閲という形でチェックできたものが、今後それはできなくなる。中国のネット利用
者が不特定多数の検閲なしの情報を受ける機会は無限に増えることになる。そして
それを防ぐために政府は今度は個人のインターネット利用、使用そのものを利用制
限、閲覧制限の手段を考え、取ることになるが、究極場合によってはインターネッ
トの使用そのものを禁止ということになりかねない。そのことについての大儀名分
があるわけがないし、インターネットの使用禁止などということを、できようはず
がないのだ。                                                              

1986年、テレビの電波が、ベルリンの壁の崩壊をもたらしたように、今度はイ
ンターネットが中国の一党独裁政治体制崩壊が始まるきっかけとなるのかどうか。

と、上記のように書いたのが1月14日のこと、明くる日、15日の新聞を読んで
いたら、どうやら中国政府はすでに従来行ってきたインターネットの規制の一部を
撤回したらしいというニュースが出ていた。これを受けてGoogleも中国から
の撤退ということをやめるようだ。一件落着だが、これである意味中国の言論の自
由化は一歩前進したことになる。これがまた中国社会がどのように変遷していくか
に重大な関わりを持ってくる。今後の推移が見ものである。                    

2010/1/16
早勢 直
今週の意見(664):

取材源隠匿はマスコミ特権か

これはなにも事件に関して小沢擁護とかなんとかでなく、日本のマスコミ報道のお
かしさを指摘するものであることを冒頭ことわっておきたい。本テーマに関しては
19日、20日と連続してBLOGで関係問題を論じた。今回は検察というよりマ
スコミが取材源を明らかにしないまま、「関係者の話によれば」などという書き方
言い方でニュース報道をすることがおかしい、不当である、不公正であるというこ
とを再度書いておきたい。                         

同じことを原口一博総務相が「関係者によると」との表現を使うテレビの報道が「
不適だ」と発言したそうだ。それについて、野党やマスコミから「報道規制だ」と
の批判が起きている。原口氏はその発言自体なにを報道規制を意図したものでない
ことは釈明したが、その発言の趣旨自体なにも間違っていないことはことについて
は21日の国会予算委員会で、公明党議員の質問に答えて明言していた。その通り
でないか。                                

別に今回に限ったことでない。私はずっと以前から公共放送NHKを含めてマスコ
ミがなんらかの事件を報道する時に「関係者の話によれば」という表現でそれがあ
たかも事実であることを前提とした表現でことを報ずることが非常におかしいと思
っていた。NHKを含めたマスコミはその情報源は明かさないというのがマスコミ
の基本的姿勢であり、権利だとされていること自体はある面では認めていい。でな
いと、その情報提供者に被害が及ぶことも考えられるからだ。         

しかし、仮にその情報源提供者が検察、警察、または政党などと言った公的機関で
あった場合、どうしてそれを隠す必要があるのかということだ。むしろ明確に検察
警察調査官の話によればと明言するべきである。いや数々の報道のなかでそういう
ことは一回もないが、その情報内容自体取調官と容疑者自身の間でしかわからない
ようなが報道されることがいくつもある。容疑者は逮捕され、外に向かってなにか
言えるわけがない。分かるとすれば弁護士だが、弁護士は容疑者の不利になるよう
なことを言うわけがないのだ。論理的に言えば、後は調査官しかそれを知っている
ものはないはずなのだ。                          

関係者という表現でなく、そうした情報の根拠を、確信的な表現で言うのなら、情
報源が一体どこなのか、何なのかを明確にするべきだと原口氏がいったのは極めて
当然の論理である。これを報道規制だとか、なんとかいうことこそ全く筋違いとい
わざるを得ない。情報源が全くの個人でそれを明らかにすることがまずい場合は当
然しなくていいが、それが公的な立場、特に調査当局であれば100%それを明記
すべきであることは言うまでもない。そうでないから、これは検察でない、関係業
者からの情報だといえばいいことである。ただそれが裁判沙汰になって、その関係
業者とは誰かとなった場合、その情報源を隠すことが許されないのは当然である。

先のBLOGでも書いたが、マスコミがニュースを含めて、社説、コラムあらゆる
記事を書く場合、その記事内容の事項に関する事実関係は基本的にはすべて明確に
すべきである。仮にそれが学問の世界であれば、そうしないとその論文内容は全く
事実関係に裏づけのないものでありなんの信頼に値するものでなくなる。それが事
実かどうか、まだその確認にいたっていないことなら、それを立証すると思われる
事象、証拠をできるだけ具体的にあげてその推定の正しさ、主張を書くのが常識で
ある。マスコミのニュース記事、社説、コラムなどあらゆる記事も同じことだ。そ
の情報源を明確にしないで、手の内を明かさないまま自分の思い込みだけで主義主
張を書かれたら迷惑するのは読者である。仮に名を出せない個人、団体などの場合
なら、その情報の裏を取って確認しておくべきである。その場合はもちろん情報源
は自身の調査によると明言すればいいはずだ。                

その記事を書いてそれに被害を受けた者が名誉毀損に訴えたりすることはよくある
が、その時その事実関係を裁判で証明するのはその記事を書いた方にあることは言
うまでもない。それでもその情報源を明らかにしないままですむはずがない。それ
ができないでそんな無責任な記事を書いた方が敗れるケースなど日常茶判事のこと
である。                                 

多くの場合マスコミはそういうことにならぬよう、情報源を「関係者」という名を
使ってごまかしているだけのことなのだ。学問の世界では絶対に許されないこと。
どうしてそれがマスコミなら許されるのか、それがマスコミの特権なのか、私には
全くわからない。

本件を調べているうちに、なる言葉でそうした情報操作に関わるマスコミの体質を
批判したBLOG(ソースロンダリング)があったので紹介しておく。ここではっ
きりしておくが、私はこの記事にあるようなことの事実関係は確かめていない。こ
れをマスコミがこれに類することをやっているということを言うためにこれを参照
したわけでもない。ただこのような見方が出てくること自体マスコミが情報源を明
らかにしないとことをあたかも特権であるかのように考えていることに対する不信
の表れの一つであることを指摘しておきたいのである。          

2010/1/23
早勢 直

参考記事:ソースロンダリング


今週の意見(665):

ゼロベースで見直すべきもの

沖縄県名護市長選で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾(ぎのわん)市)の施設受け
入れに反対している候補が当選したことで、宜野湾への移転は大変難しくなった。
にも関わらず5月までに普天間基地の移転先を決める方針には変わりがないとし、
移設先の選定をめぐって、さかんに「ゼロベース」という言葉を連発している。つ
まりこれまでのいきさつなど横においておきあらゆる可能性を検討すると言ってる
のだ。                                                                    

しかしその一方で平野長官は沖縄県名護市長選で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾
(ぎのわん)市)の施設受け入れに反対している候補が当選したことに対し、「自
治体の反対を斟酌(しんしゃく)していたら何もできなくなる」と述べて物議をか
もした。平野官房長官はおそらくは適当な代替地が見つからない今、多分移転先は
名護市辺野古案にならざるをえないと考えているのだろう。だから先手を打ってそ
れを示唆したのだろうと思われる。鳩山首相も実は同じことを考えているのだろう。
ただ今はそうは言えないので、あえてゼロベースなどという大げさな言葉を使って
いるように思える。                                                        

ゼロベースとは「過去のいきさつや、先例に一切とらわれることなく物事を決める」
という意味なのだが、そもそもこの移転問題、「ゼロベース」なる発想が、外交・
防衛問題には通用しない、通用させにくいことが問題の本質なのである。それが基
地(ベースキャンプ)だけの問題ならまさにそれをどこに持って行こうと、少々困
難が伴っても短期間になんとかできるかもしれない。5月までに決めろと言われた
ら、「はい、いろいろ根本から検討しましたが、やはり当初案しかありませんでし
た」で済む。                                                              

ところが今問題になっているのは、ただ普天間という既存の基地の移転先のことだ
けでないのだ。この問題は日米の同盟関係そのもの、日米安保、国家の防衛の基本
そのものに関わるをまきこんだ問題であることなど言うまでもない。そうした根本
問題を全部「ゼロベース」で、しかも5月末までに考え直す、やり直すことなどで
きようはずがない。単なる一基地の問題ではないのである。                    

特に日米安保50周年の今日、29日岡田外務大臣が国会、外交演説の中で日米同
盟の深化を訴えていたが、それはまさに日米同盟関係、日米安保をゼロベースで考
えるということだろう。それは10年20年先のこと、かって鳩山首相が唱えたい
た「駐留なき安保」の可能性も含めたまさに日本国家の安全保障体制を根本から考
え直すということであろう。そもそも日米関係が対等でないのは、日本の防衛が米
国の軍事力に大きく依存しているということからきているのである。長期的にその
関係を根本的に考え直すという考えは正しいのだが、そのためには、まず日本の防
衛は、日本独自のものを考える、それが出来るという体制を作らなければならない
のである。それができて初めてより対等な日米安保、対等な日米関係ができていく
ことなどわかりきった論理である。                                          

そうした日米関係の現状を直視しないで、基地問題を「ゼロベース」で考えること
などできるわけがない。鳩山首相の言うゼロベースなどまさに口先だけのことであ
る。仮に防衛問題を離れても、今や日米の政治的・経済的関係、そしてそのベース
(外的内的環境)は、ゼロどころが、あらゆる意味でがんじがらめのぬきさしなら
ぬ関係になっているのである。それはアメリカの戦略であったかもしれないが、少
なくとも日本はその戦略に取り込まれ、またそのおかげでこれまでの日本の経済的
繁栄があったという側面は否定できない。そういう状況を作りだしてきたのは日本
自らの選択でなり、責任でもあったのでないか。                              

第一基地移転先の選定については前政権が合意したこと、新政権はそんなことは知
らぬといえるわけがない。それ自体は外交上の条約でもなんでもなく、単なる基地
に関する一合意案、こちらは政権が変わったのだから、前政権による合意に変更を
加えてもいいのだという論理がどこまで通用するかだ。それはあくまで相手の理解
があって初めて成り立つこと、相手が約束を守れと言い張れば、やはりその約束は
守るしかないのではないか。いや、場合によっては守らなくてもいいが、但しその
場合、相手との関係が悪くなってもいいという計算、覚悟がどこまでできているの
か、である。                                                              

この問題、浮上した時から私は早期に合意案通りに決着するべきことを主張してき
た。いや、オバマ大統領来日の時に、まさに今鳩山首相が言っているように、「こ
の問題ゼロベースで検討したい、またすると選挙で公約したので少し時間をくれ」
と言ったのなら話は別である。前政権が13年も掛けてやったこと、新政権がそれ
を一年くらいかけて再検討したいというのならアメリカとてそれには同意せざるを
えなかったはずだ。

それだけの時間を取っても結論は同じかもしれない。しかしそうした過程を踏んだ
結論なら、米国はもちろん、国内でもより多くの理解を得られるにちがいないので
ある。この問題5月末までに、米国、日本政府与党、沖縄などそれぞれの関係者が
満足するような結果は得られそうにない。                                    

その場合この問題が鳩山首相の責任問題に発展する可能性があるのはやむをえまい。
鳩山首相自ら蒔いた種である。

2010/1/30
早勢 直
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