2000年 今週の意見 1月

年頭所感

 二千年虫があばれ出すこともなく、みなさま平穏無事なお正月を迎えられたこと
と存知ます。2000年問題で、お正月から出勤の方々は大変ご苦労様なことで
すが、念には念を入れての万全の危機管理、何もなかったから、なんだこんなこと
無駄ではなかったではないかということではないでしょう。このような中央政府
各地方自治体、企業レベルでのさまざまな準備、訓練が将来起こるかもしれない
さまざまな自然災害に役立つことがあることは事実でしょう。今回の経験の意味
はむしろそちらの方が大きいにちがいありません。

 あの阪神大震災の直後この国の危機管理体制の脆弱さが指摘され、その強化の
必要性が叫ばれました。が、のど元過ぎれば熱さを忘れる。どうも我々日本人は
こと災難に関しては忘れっぽいところがあるようです。

 昨年はトルコの二度にわたる大地震、台湾の大地震が発生し、多くの犠牲者が
出たことはまだ記憶に新しいのです。同じ地震国の日本。大地震に備える体制が
本当に万全なのか、改めて総点検の必要な時期がきているようです。それは今回
の2000年問題のように予測できることでなく、まさに突然訪れることです。
政府、自治体、企業、私たち市民の一人一人は今回学んだ、また演習してみたさ
まざまな訓練を引き続き何度も大地震を想定して行っていくようすべきだと思う
のです。それが本来の危機管理なのでしょう。

2000/1/1
Tadashi HAYASE
今週の意見(149):

前文相の発想

 教育改革がざまざま話題になっているが、その中でも最近の大学生の学力低下が
重大な問題としてとりあげられることが多い。大学教育の改革について、最近前の
文部大臣の有馬氏の見解が朝日新聞に出ていたのを読んだが、大変気になったことが
ある。最近日本の大学生の学力レベルが大変落ちているのではないかという各方面の
指摘に対し有馬氏が考えが述べられていた。朝日新聞(1月4日:少子化の新世紀)
によれば、有馬氏はそれをなにか数式で表現して文部省職員に説明したそうだ。いわく
「子どもの数が減ると受験生の学力が落ちる」。

 有馬氏は要するに、「学力を維持したいのなら人口が減った分入学者を減らすしか
ない」 とおっしゃったわけだ。大学で学生のレベルをあげるには、入り口を狭くす
ること、すなわち入試試験をさらに難しくし、その難しい試験をパスしてきたものだ
けに学生を絞れば、学力は回復する、というお考えらしいのである。

 朝日新聞の記事はそれに明確に反論していたわけではないが、それに対する意見
として愛知県の名城大学四方教授の話を載せていた。その教授は地元元名古屋大学
の教授であったが、名古屋大学を退職後、名城大学に移り、担当講座の数学の試験
に何年か前に名古屋大学の入学試験に出した問題をやらせてみたということだ。結
果、名城大学の学生の答えの方が入学試験のそれと違ってバラエテイに富んでおり
おもしろく、創造性もあったというわけだ。その教授がおっしゃっているのは「入試
の成績と入学後の学力は違う」ということだ。入学後の訓練や指導で、学生の能力は
大変アップするものだ、ということだろう。入学時のいわゆる偏差値にかなりの差
があったとしてもだ。

 そうだろう、と思う。いうまでもなく日本の大学は非常に入りにくく、卒業しや
すいのである。入学試験の難関を突破したとたん、ろくろく勉強しなくなるのが通
常である。だから学力が落ちるのだ。だから話はむしろ逆だろう。入学をよりやさ
しく、卒業は難しいなるように、大学側が指導することが大切なのである。いうま
でもなくこれはアメリカの大学がとっている方式だ。私自身の経験でもあるが、こ
の点アメリカの大学の方針は徹底している。アメリカの大学生は日本の大学生に比
べて実によく勉強するのである。それはそれぞれの単位を取り、卒業資格を得るた
めには相当勉強しなければならないからである。それは紛れもない事実である。

 有馬氏が入学者を絞って入学試験をさらに難しく、学生の質を高めようとされる
のならその発想は全く逆だといいたい。東大にしたって、京大にしたってましてや
その他有名私立大学だって、もっと入学の門戸を思い切って広げたらいいのである。
広げるべきだ。そして入学後は、相当な勉強をしなければおいそれと卒業できない
ようにしたらいいのである。

 こんなことは改めていうようなことでなく、何度も識者によって指摘されてきた
ことのはずである。が、どうしてこんな簡単な、そして当たり前のことが日本の大
学ではできないのか私は不思議でならないのである。ましてや文相を務めるほどの
有馬氏がどうしてそんな発想をされるのか私にはわからない。

2000/1/15
Tadashi HAYASE
今週の意見(150):

ディジタル政府

 首都機能移転について、その移転先の候補が昨年末あげられ、いよその検討が国
会でも始まることになるらしい。らしいと言ったものの、これが果たしていつ頃
どういう形で決着がつくのか、わからない。というのは、それでもなくても財政難
の時代、移転にはものすごい投資が必要なことは目に見えているし、第一移転先を
めぐってそれぞれの思惑でそう簡単に答えが出そうにない。現在の首都東京など
石原知事をはじめ都をあげてまずは大反対の声をあげている。そりゃそうだろう。
首都機能が移転してしまえば、東京都はもはや都ではなく、東京県とでもなるのだ
から。

 一番わかりにくいのは、首都移転というがそれが一体なんのためか、ということ
である。いわく、東京はもう混み合っていて、首都たる機能を果たせない。東京一極
集中で全体の経済発展が損なわれているなどなど。で、国政にかかわるいくつかの
機能をまたは全部を地方に分散して果たして、日本の政治がよくなるのか。立法、
行政、司法がよりよく機能するようになるのか。なによりもそれが国民の生活を向上
させることにつながるのか。

 そのあたりがどうもよく見えてこない。で、どうやらその推進論者の意見を聞いて
いると、それがとても大きな経済効果を伴うということがポイントらしいのである。
要するに、それは国家的大規模な公共投資事業だということなのだ。それをやれば、
あらゆる施設の建設と移動のために必要な公共投資が行われる。たしかに想像を絶す
るお金がそこに使われるに違いない。一大経済プロジェクトには違いない。

 待てよそれはどうも従来の一連の公共投資の発想となんら変わらないのではないか
と考えるわけだ。それを考えていた時、昨年12月11日の週刊ダイヤモンドの中に
『首都機能移転先は「ネット」』という野口悠紀雄氏の小論が掲載されているのを見て
はたとひざを叩いたわけだ。東京への一極集中で行政機能などが渋滞しているのなら
移転というようなことでなく、行政機能を徹底的にネットワーク化する、デジタル化
することでその効率を上げることを考えるべきだ。行政改革にともなって問題となっ
ている小さい政府の実現もこれによってできるはずだという論である。

 その通りであると考える。以前にも何度か書いたが、もう従来型の公共事業で経済
成長をめざすという発想は限界にきているはずだ。それを相変わらず日本中に高速道
路をはりめぐらし、高速鉄道を引き、本州と四国の間に3本も橋を架けたのである。
それがすべて無駄であったとは言わない。が。そんなことよりも今の時代、まさに必
要なのは「情報のハイウエイ」であり、情報の橋であり、行政機構のネットワーク化で
あるはずだ。中央政府、地方政府の行政事務のの徹底的なデイジタル化をはかること
で、日本の遅れた情報化を一気に取り戻し、アメリカなどにも追いつき、追い越すこ
とができるという野口氏の指摘はそのとおりだと感じたわけだ。

2000/1/22
Tadashi HAYASE
今週の意見(151):

民主主義の夜明け

 徳島市の吉野川の可動せきの建設をめぐっての住民投票が23日行われた。全国
で住民投票なるものが行われたケースはこれまで10ほどあるそうだが、国の公共
事業の是非をめぐってその賛否を問うケースは初めてである。そしてこれが全国的
に注目されたのはその賛否の結果だけでなく、投票率が50%を超えるかどうか、
ということであった。投票率が50%を超えないと、その投票結果自体開票もされ
ないという条例にもとづくものだという。結果は投票率が55%に達し、建設計画
の見直しを求める声が圧倒的に多いという結果が判明したのだったが。

 そんな馬鹿な、と最初その事実をニュースで知った時、思った。どうしてそんな
条例ができたのか。普通の選挙の投票なら、それが国政のそれであれ、県や市の議
員を選ぶものであれ、投票率がいくら低くてもその投票自体が無効であるというこ
とはありえない。住民投票なんてものはそもそもイレギュラーなものであって、市
議会選挙でも住民投票をせよという市議会議員が多数をしめたこともあって、これ
を行うことにしたのだが、これに反対の立場の議員たちが無理やりそうした足かせ
をはめたものなのだろう。

 吉野川に可動せきを作るという建設省の計画は国の公共事業の一環で、建設省は
水害対策として必要な事業だと、この計画を推し進めようと計画してきた。が、そ
れは吉野川の自然を破壊するものだと周辺住民が反対し、その計画に待ったをかけ
住民投票で住民の民意を問うべきだと、主張した。極めて当たり前のプロセスであ
るように思われた。ところが建設省とか、これを推進する立場である県の関係当局
などは、このような治水という国家事業に住民投票などというプロセスは妥当性が
ないし、それになじむものではないという主張を繰り返してきた。現中山建設相な
どは、その結果いかんにかかわらず建設省はその工事をはじめるつもりだと言明し
たのである。

 なんという横暴な考え方なのだろうか。私自身その可動せきなるものの必要性に
ついては、この際その賛否の意見を述べるつもりはない。それについてはわからな
いというのが正直な答えである。が、地域の住民が川とその自然環境を守るために
その工事に反対だと言ってるのである。いや、その是非について、周辺住民の意見
も直接聞いてくれと言ってるのである。それが住民投票で民主主義の本来の姿とい
うものではないか。

 日本ではまだ住民投票なるものが民主主義的手続として定着していない。という
か、多くの国政にあたる議員や、政府要人もそれを認めていないのである。そのこ
とが重大な問題なのである。国政選挙や、地方の議員選挙でその手続きは十分であ
あって、住民投票なるものを認めたら、政治が混乱するというのがその主な反対理
由であろう。

 なんでもかんでも、住民投票を、というのではない。が、地域住民の生活に直接
影響のある重大問題について、住民投票という手続きがあってなんらおかしくない。
これまでなかったから必要ないなどという論理は成り立たない。地域住民、国民の
民意を直接問うべきだということは何も地方自治体の問題だけでない。国政の問題
たとえば憲法改正の問題、それから昨年問題になったような国旗、国歌の制定問題
などは国民の意思を直接聞くために直接投票を行ってもいい問題であろう。

 議員の選挙を通じてすべての政治的決定を行うという間接民主主義から今や、直
接民意を問うという直接民主主義が実現できる、また実現すべき時代がきたのだと
思う。直接民主主義が本来の民主主義なのだ。投票を行い、投票の結果を迅速に集
計することも容易になった。国民もそれを望んでいるのだと思う。直接投票などこ
れを認めないという一部政治家の横暴を正すためにも、今回の住民投票が55%と
いう高率で成立したことの意義は大きいと思う。

2000/1/29
Tadashi HAYASE

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