2000年 今週の意見 8月
今週の意見(178):
久世金融再生委員長辞任
久世金融再生委員長は7月30日、三菱銀行、大京などから政治資金の供与を受
けていたことが発覚し、辞任した。国民の税金が公的資金として、三菱信託銀行を
はじめとする大手銀行に多額注入されていることは、規定の事実。それらの資金が
適切に管理・運用されているかどうかを監査するのが、金融再生委員長の役割なの
である。
その委員長が関係銀行から利益供与を受けてたとなると、問題になるのは当然の
話である。それを問題発覚時、森首相自身も問題なしと言っていたというのだから
あきれる。どうやら、森さんとはその程度の政治倫理観の持ち主であることがはか
らずも露呈したのである。「本件に関しては率直にその非を認め、深く反省する」
などとコメントしているが、とにかく以前起こった事も含めて簡単に、非を認めて
しまうお人らしい。
久世委員長の辞任を伝える同じ日の新聞各紙に、新生銀行が外国人役員経営の企
業にアドバイス料として57億円も支払う契約をし、一部はすでに支払われている
という報道があった。同銀行はそれは正当なビジネスの取引行為でなんら問題はな
いとコメントしている。果たして、新生銀行の経営陣は胸をはってそう言いきれる
のか、どうか大いに疑問が残る。
その件は上記久世委員長の辞任問題とは直接関係のないことである。しかし新生
銀行とは、経営破綻した旧日本長期信用銀行に多額の公的資金を投入することで生
まれ変わった銀行であって、いわば日本の国民はすべからく、新生銀行の経営の中
身について関心を持ち、その経営方針に疑問を持ったり、注文をつけたりしたくな
るのは当然のことなのである。
マスコミ各紙もこのことは報道しているが、事実関係だけで明確にそれを非難し
たり、疑問を呈したりしているところはまだ殆どない。が、本当にそれだけで事が
済む話なのかどうか、大いに疑問がある。
久世金融再生委員長の辞任問題といい、この新生銀行の問題といい、要するに金
融システム安定化の名目のもとに国民の血税を大量に使い、、つぶれかけた銀行を
救済したり、他ののどの企業、業種などには与えることのない便宜を与えることの
必要性が本当にあるのかどうか、改めて根本的な疑問を持ったわけだ。
2000/8/5
Tadashi HAYASE
今週の意見(179)
千葉選手敗訴
千葉すず選手の仲裁裁判の結果、水連の決定は正当ということになった。ただし
水連は事前に選考基準を明確にしていなかったとして、水連に千葉選手の訴訟費
用の賠償などを命じたわけだ。なんのことはないけんか両成敗。しかし千葉選手
にとっては残念な結果であった。
でも、千葉選手が本件で日本水泳連盟を仲裁裁判に訴えたことの意味は大きか
った。彼女の記者会見の席での笑顔とそして涙がそれを象徴していた。彼女は本
当は仲裁結果については不満を言いたかったのかもしれない。しかし、「仲裁結果
は公正なものだ」と言った。親なり、先輩なり、友人なりが、そう言った方が無難
だとアドバイスしたにちがいない。その結果マスコミの扱いもかなり彼女に好意
的であり、同情的だった。そしてそのこと自体やはり極めて日本的だと私は感じ
たわけだ。
これが外国、欧米諸国ならそういう仲裁について訴えた側は、それはおかしい
納得できないと記者会見の席で言うにちがいないのである。ことに本来そのいき
さつを勘案すれば、やはりそれが本筋ではないかと考えるのである。
水連が千葉選手が日本選手権で優勝した千葉選手を代表からはずしたのは、要
するに前回のアトランタで負けた時の彼女のあっけらかんとした態度が気にくわ
なかったのだ。そしてなにかと水連のいうことを聞かない千葉選手にお灸をすえ
る、それが目的だったことはまちがいない。
古橋会長は水泳は個人競技ではない、団体競技だ、などと言っている。冗談じ
ゃない。リレー種目は団体競技だろうが、後は全部個人競技であることは疑う余
地もない。
そういうチームの和が大切だと言った精神論、全体主義、団結主義を押しつけ
るところがその根本体質なのだ。おおげさに言えば、この国全体のまだ国際化で
きない、閉鎖社会性の顕著な例の一つなのだ。
一人一人が個人として自らの責任で競技に臨む。そして勝利の栄光は個人のも
のだ。もちろん個人の属する団体、スポンサーたる国家もそれをわかちあう、わ
かちあえることはいうまでもない。が、後者はむしろ従なのだ。従でいい。
それを水連は、競技者は国家の名誉のために競技せよ、と言ってるわけだ。時
代錯誤もはなはだしい。
2000/8/12
Tadashi HAYASE
今週の意見(180):
石原知事の靖国神社参拝
石原知事が靖国神社を公人として参拝したとあって、またまた物議をかもしたよ
うだ。参拝のよしあしはともかく、私人としてか、公人としてかと問われて、あえ
て公人としてだ、と言いきるところが石原氏らしい。
あちこちの宗教団体から非難の声が上がったりしているが、どうも私には公人と
か、私人という区別がよくわからない。知事に限らず閣僚と言わず、私人としてな
ら問題ないが、公人としてなら、特定の宗教を公人として押し付けるものだからで
けしからんという論理であろうか。
私自身は公人、私人を問わず、政治家といい、またいかなる職業の人が日本人と
して、前の戦争で犠牲になった人々を祭った靖国神社を参拝することについて何の
違和感もない。そうしたことをさまざまな宗教団体が非難する理由がまったくわか
らないのである。そのことと国やその公人が、特定の宗教を押し付けることとはま
ったく無関係であると考える。
仮にキリスト教徒の政治家や、知事が教会で行われる戦争犠牲者の霊を慰めるミサ
みたいなものがあって、それに出席したとしてもなんら非難すべきでないことも同じ
である。逆にキリスト教徒団体はそれならいいとでも言うのだろうか。
公人と言わず、私人と言わず、信教の自由は保障されていると考える。ただそれを
他に押し付けたり、その行事を強制したりすることがいけないことは言うまでもない。
政治家が靖国神社に参拝するのは宗教的な信仰というより、戦没者の慰霊のためとい
う意味であると解釈してるし、事実そうなのだろう。そのことをまた中国などが非難
したりする理由もまったくわからない。戦没者の霊を慰めることと、日本の前の戦争
責任とは全く関係のないことである。
2000/8/19
Tadashi HAYASE
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