2005年 今週の意見 4月
今週の意見(415):
エィプリル・フール
昨日はエィプリル・フールだった。欧米では毎年これにまつわりちょっとした事
件が起こる。うそ、流言ひごのたぐいで大騒ぎになるわけだ。今年はたいした話
題もなく無事済んだようだ。そうした実害が生じるような行き過ぎたいたづらは困
る。しかし欧米社会ではまあそれも笑って済ませるわけだ。これもそれもギクシャ
クした社会の緩衝剤としてのジョーク、ウイットというものを大切にする社会的文
化的背景があるからだろう。
日本でも最近はそのエィプリルフールなるものが浸透してきて、少しは話題にな
るが、あまりいたづらをしかたたりする人もない。昔私はあるアメリカの企業に勤
めていたことがあるが、トップのアメリカ人経営者がエィプリル・フールの前日私
にちょっとしたいたづらを仕掛けようと相談を持ちかけた。彼の秘書や、何人かの
女性をちょっとからかういたづらであった。それは今の言葉でいうセクシャル・ハ
ラスメントでもなんでもない、ほんの軽い冗談であると私も思った。私は彼に協力
して、4月1日当日、わざわざ早朝出勤して、そのいたづらを仕掛けたわけだ。
そしてその秘書を含めて、出勤してきた女性事務所員たちはそれを見て一応にみ
な面白がるどころかカンカンになって怒りだしたのである。そのボスと共犯者の私
は、しかたなく「すみません」と謝ったのだが、その後数日事務所内にしらけた空気
がただよったことは言うまでもない。
そのボスはもちろん私の感覚ではそんなこと、みな笑って済ませるだろう。いや
むしろ拍手喝采しておもしろがるだろうと思ったが全然違ったわけだ。いやその時
はじめてそれがいいとか悪いとかでなく、これは欧米人と日本人のウイット、ユー
モアといったことに対する根本的な感覚の違いにに由来するものだと自覚したわけ
だ。
たしかにおもしろい冗談と悪い冗談は紙一重のところがある。私に言わせると常
日頃、どちらかというともっとひどいというか、直接的などぎつい男性の冗談やか
らかいに怒りもしないくせに、どうしてそうしたより軽いというか、ウイットに富
んだ冗談に怒りだすのが私自身わからなかったということであった。
いや、それを一言で日本と欧米文化の違いだと片付けてしまうのでなく、どうし
てそういうことになるのか、よく考えてみたいとエィプリル・フールがくる度に私
はそのことを思い出すのである。
2005/4/2
早勢 直
今週の意見(416):
入学式
この4月から私の住む地域の自治会の会長を引き受けることになった。4月3日
に地域の地区会館で総会があり、他のさまざまな役員たちとともに一年間会の運営
に携わることとなった。若い間は会社勤めで忙しく、そうしたコミュニテイ活動に
はあまり参加もしなかったし、できなかった。ましてやその役員になって会のため
になにかするということもなかった。
最近は自治会の役員、ましてや会長などなり手がなかなかなく、毎年それを決め
るのが大変だと聞いていたが、私自身それがなぜだかよくわかっていなかったので
ある。その会長になぜなってしまったかの経緯はいずれまた書く機会があるかもし
れないが、4月3日に自治会総会があり、正式に会長になってから、なるほどこれ
は大変だぞと改めてわかったのだ。
自治会のさまざまな行事、活動のほか、防犯、防災、教育、福祉、環境問題など
市や周辺地域のコミュニテイと関係した行事が沢山ある。4月3日以降そうした仕
事が俄然増えたのだ。おかげでいつもこなしてきたクラブ活動などにも支障が出て
きた。
そうした行事の一つが、小学校、中学校の入学式への地元自治会代表としての出
席であった。ただ式典に来賓として座っているだけのことだが、私自身は最近の学
校の様子なども見学できるし、学校の光景なども記録できればとデジカメなど持っ
て出かけたのだった。
自分自身の入学式のことなど、中学校のそれはともかく小学校のそれなど殆ど覚
えていない。当時は戦争のまっただ中でのことで、かろうじて残っている写真を見
ても子供も校長も先生もみな何か暗い顔をしている。服装だってあまりいいものは
着ていない。それに引き換え、今の入学式は広い校舎、きれいな体育館の中で市、
PTA、地域代表者の臨席のもと行われる。子供たちはみないい服を着て、健康そ
うである。ただ小学校の新入生はたった69人だった。
小学校の入学式が終わってから、PTAの会長がたまたま地域で顔見知りの関係も
あって少し話をする機会があった。会長が「そのうちいろいろ相談に参りますから」
と言われてはじめて気付いたわけだ。そうか、学校教育、子供たちの教育は今や学
校だけの問題でなく、PTA、そしてその地域住民、自治会なども一緒になって考
えなければならない問題なのだと。
ただ入学式に出てゲストとして座っているだけではその責任を果たしたことにな
らない。というものの、はてさて一体地域コミュニテイとして、同じ地域に住む子
供たちに一体何ができるのか、してやれるのかということだ。
少子化の時代、子供たちはいわば社会の宝ものである。これをいかに大切に育て
るかの責任が学校、教師、親にあり、それに地域社会がどんな手助けができるかと
いう問題なのだ。
うーん難しいことだ。しかし、「こんなこと、あんなことができるのではないか」
と学校からの帰り道、考えながら帰ってきたのだった。今はそうしたことの具体的
な成果について一つでも二つでも報告する機会がこれからあることを切に願ってい
るのである。
2005/4/9
Tadashi HAYASE
今週の意見(417):
愛国無罪
「暴力を 愛国の名で 正当化」今週のへたくそ一句である。おもしろくもへたくれ
もないが意味はおわかりであろう。中国で起こっている日本大使館や日本の企業に対す
る大衆の暴力行為を非難するものである。愛国無罪などというプラカードは一体誰が考
え出したのか。中国政府はデモは遺憾としながらも、その責任は日本政府にあるような
言い方である。とんでもない話である。町村外相ははっきりと暴力行為については謝罪
と弁償を求めているが当然の話である。
私の妻など常日頃政治のことやら国際ニュースなどにあまり関心を持っていない。が
あの中国での群集の暴動ぶりを見て、怒っていた。「なによ、中国ってひどい国なの
ね。日本の国民、日本の会社が一体何をしたというのよ。昔のことをいちいち持ち出し
てそれをいいがかりにするのもいいかげんにしたらどうなの」と。私ももちろん腹が立
ったがいつものことなので、まあしゃないか、って感じだった。この言葉を聞いて少し
腹の虫が収まった。
政府はもちろん日本のマスコミだってもっと怒りをこめた報道をしてもいい。日本国
民ももっと怒ってしかるべきだ。そうしたことが将来の正常な日中関係に悪い影響ばか
り及ぼすとは私は思わない。まず怒るべきだ。もちろんそれからの対応は冷静にでなけ
ればならないが。
ただああいうことをやるのはあくまで一部の中国人であり、中国にだって常識のある
人たちは沢山いるはずだ。自分達のやっていることは国際社会の中でも恥ずかしいこと
だと気付いている人もいるはずである。
大体「愛国無罪」なんてどういう意味だ。国を愛しているなら、何をやっても罪にな
らない。そんなはずはない。かっての日本人の道徳心は中国の孟子、孔子の教えによる
ところが大きかった。それで人間としての正しい道、あり方道徳を習ったのである。孔
子の5常の徳の中に「仁義礼智信」などというのがあった。その中にはどうひっくり返
しても「愛国無罪」なんて言葉はなかったはずである。
正しい人間として行動の規範を習いなさい。その上で人と仲良くし、家族を大切にし
、そして国家社会を愛しなさいということであったはずである。今の一部の中国人はそ
うしした中国思想家教えの「いろは」も知らない愚か者である。それはほんの一部の人
たちであることを信じてはいるが。
2005/4/16
早勢 直
今週の意見(418):
謝罪表明演説
昨日の夕刻のテレビニュースでそのことを報じていたが、それを聞いた私の最初
の感想はなぜまたかって日本が何度もやった謝罪をまた改めてやらなければならな
いのか、いい加減にしろといいたい感じであった。が、MLで久保さんが小泉首相
のアジア・アフリカ会議でのこの謝罪演説を評価するコメントを読んで、考えを変
えた。そうだ、それでよかったと考え直したわけだ。
欧米はもちろん、もちろんアジアアフリカ世界の人々だって中国や韓国が言うよ
うに日本が前の戦争のことについてあまり反省していないとか、中国や韓国に正式
に謝罪していないとか思っているかもしれない。で、小泉首相は演説で、かっての
村山首相の謝罪表明を引用するという形でそれをやったわけだ。謝罪はこのように
前にもちゃんとやっていますが、そのことを確認しておきますよ、というわけだ。
相手が聞いていないというのなら、かってこのように謝罪をしていますよと国際社
会の前で改めて説明したわけだ。これで国際社会からは一定の理解は得られるに違
いない。
中国首脳はそれを聞いてとりあえず歓迎の意を表したが、それでも相変わらず、
それも日本の今後の行動次第だなどとコメントしている。つまり相変わらず首相の
靖国神社参拝のことなどを問題にしているのだ。その点全くどうしようもないしつ
こさというか、いやらしさだというしかない。
こと首相の靖国神社参拝に関する小泉首相自身の説明について、私自身はそれは
日本人の心情として理解できるし、それをいちいち中国、韓国から問題にされるこ
とはないと主張してきた。今もそうである。ところが日本では野党の一部をはじめ
マスコミなど未だそれを問題視する論が多いのを私はどうも理解できないのである。
そのことは、絶対譲る必要はないと思ってきたが、もうあんな愚かな国にいいが
かりをつけさせないためには、「ではやめます」ということもないがとりあえずそ
れをやめてもいいかなと思い始めたわけだ。それでもまだなんだ、かんだとクレー
ムをつけ続けるのかということである。それをやめる言い方はどうにでもなる。首
相だけやめてかっても、今もやっている他の閣僚、政治家の参拝は続けたらいいだ
けの話ではないか。
日本と中国の関係悪化のことはまさに世界中が注視している。今回の小泉首相の
アジアアフリカ会議での謝罪演説を含めて、この際靖国神社問題など中国からクレ
ームをつけられていることなどクリアしてしまうことがいいかもしれない。そうし
た日本の態度は欧米諸国はもちろんアジア・アフリカ諸国からも支持されるに違い
ない。それで中国からのつまらぬ言いがかりをやめさせることができたらそれにこ
したことはない。
私自身はそうした意地は大切にしたいとずっと考えてきたのだが、この際ここは
その意地を横において、日本は大人の対応をしたらいいと考えるのである。
これで私も普通の日本人になったのかな。
2005/4/23
早勢 直
今週の意見(419):
バケツリレーの精神
4月24日の日曜日東京消防庁北多摩西部消防署の主催で、十の武蔵村山市自治
会の自主防災組織担当者を集めて防災に関する講話会があり、出席した。主な話の
内容は阪神大震災、新潟中越地震、そうした大地震災害の時、国や、県、市町村が
何をやるか、やってくれるかも大切だが、そうした緊急時結局頼りなるのは、それ
ぞれの家庭での備えであり、隣近所の助け合いであり、地元自治会の常日頃の災害
に対する準備、住民との連絡、訓練だということでした。
言われるまでもなく私自身頭ではそれを理解していながら、そうした自主防災組
織編制表の意味、その役割などあまり考えてみることもなかった。が、この話で改
めてその意味が少しわかった。何より大切なことは自身の家庭での備えとともに、
自治会として防災関連の行事、課題を重点的に取りくまなければならないと改めて
思った。
そのことと関連するが、その講話会の質疑応答の時間に他の村山自治会の会長さ
んから出た質問に私は大変興味を持ちました。その会長さんによれば、「自主防災
組織」の強化をして欲しいという消防署としての要望はよくわかるが、我が自治会
では、自治会への参加率が大変悪く50%近くに過ぎない。いくら入会を呼びかけ
ても入ってもらえなない。それはどうしたものか。」という話しでした。消防署の
方の答えは、それを消防署に言われても困る、という答えでした。私は思わず、「
その問題の解決を消防署がせよとは言わないが実はそれが今一番大切な問題ではな
いか。」と発言してしまった。
自治会への参加意識の停滞、無関心という問題は今に始まったことではないだろ
うが、実は特に最近そうした傾向は全国的な現象のようだ。新たに転居先を決める
場合、そこに自治会など存在しない、いやあっても入会しなくてもすむような場所
を選択するというような話も聞いたことがある。自治会の役員など嫌がって誰もな
りたがらないということはどこの自治会でもでもある話ですが、私自身そこまでひ
どいとは思っていなかった。が、現実はどうもそのようだ。
なぜそんなことになってしまったか。防災といい防犯といいただ形だけつくって
もそれへの参加意識や、その重要性がわからなければいざという時なんの役にもた
たないだろう要するに自治会とは社会を構成する運命共同体の最小単位、コミュニ
テイであってそうした運命共同体に属していること、それに参加すること、できる
ことは助けあってやるという意識がない限り、社会そのものが成り立たないだろう
と思う。
最近とんでもないさまざまな社会問題が起こる、さまざまな制度が破綻にいたる
というところの根本原因を遡っていくと実は日本人、日本社会におけるコミュニテ
イ精神の崩壊ということがその原点にあるのではないか、と思う。
何か難しいことを言っているようだが、あの前の戦争中空襲時、隣近所がバケツ
リレーして燃え盛る火に立ち向かったことをいまさらながら思い浮かべる。阪神淡
路大震災の時、家屋の下敷きになった人々を助け出したのは、消防署員でも、自衛
隊員でもなく隣近所の人々がお互い協力したやったことの方がはるかに多かったと
いう事実を考えてもその意味が分かるはずだ。
そういう共助の精神は非常時には自然発生的に生まれるものだろうが、日頃から
、もっと育てておく方がいいに決まっている。市の消防署には年に一度全自治会を
集めて、9月防災の日に、燃え盛る火をバケツリレー消し止める競技会をやったら
どうかと提案したいものだ。
2005/4/30
早勢 直
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